皆さんこんばんは!
今日はロシアの有名バレリーナ”アンナ・パヴロワ”を簡単にご紹介したいと思います✨
パヴロワはサンクトペテルブルクの貧しい家庭に生まれました。9歳の頃、母親とともに観た”眠れる森の美女”をきっかけにダンサーを志します。
1899年に帝室バレエ学校を卒業する時、成績が優秀であったためコールドとしてではなくコルフェとしてマリインスキー・バレエ団に入団しました。
パヴロワは色白、細長い顔に狭い肩幅、美しい足という理想的な体型を持っており、マリウス・プティパに才能を認められたため、貧しい家庭の出であったにもかかわらず順調に昇進していきました。
1903年プティパによる改訂版”ジゼル”で成功を収め、バレリーナ昇進後の1907年にはミハイル・フォーキン振付の”白鳥”を踊り話題となった。
これがのちに”瀕死の白鳥”と呼ばれるパヴロワの代表作である。この頃マリインスキーの若きソリストヴァーツラフ・ニジンスキーとも初めて踊る。
1908年パヴロワはマリインスキーのダンサーとともに世界を巡演し、その後さらに海外公演をしたいと希望するも認められず1910年にマリインスキーとの契約は破棄された。
1911年にパヴロワ・カンパニーを作り、英国を中心に世界を巡演する。
1922年には日本で公演を行い、西洋舞踏を初めて日本に広く知らしめた。のちに日本においてバレエが定着するきっかけを作ったため、日本バレエ界の恩人の一人と言われている。
1931年風邪をひいたまま巡演に出発し、肺炎になる。症状は悪化し、手術を勧められるも手術をすれば舞踏手としては再起不能となるため拒否し闘病のすえ50歳で亡くなる。
彼女の名を汚さぬよう、またパヴロワと比較されるのを恐れロシアのダンサー マイヤ・プリセツカヤが違う振り付けで踊るまで”瀕死の白鳥”は20年間も誰も踊ることはなかった。
少し長くなってしまいましたが、アンナ・パヴロワの伝記が分かりやすく書かれている漫画もあるので機会があればぜひ読んでみてくださいね😊💕
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